アンドリュー・フィッチ博士の告白(動画の文字起こし)

 大きな蝶がキラキラと飛んでいますけど、あなたには見えませんか? そうですか、見えませんか。わたしにははっきりと見えるんですけどねエ。こう目を瞑っても見えるんですよ。なになに、コォロォセェ? この蝶は未来を予言してくれるので、わたしにとっては福音なんです。でもあなたにはこの蝶が見えないと。それは残念です。ええと、あなたがここに来たのはわたしにインタビューするためでしたね。まあ見える人はこれまでもいませんでしたから気にする必要はありません。これが見えるのはわたしの体質のおかげですし。この蝶――わたしはパピヨンと呼んでいるんですけど、そのパピヨンをわたしが初めて見たのは小学五年生のころでしたかね、勉強机に向かっているときでした。目の前をひらひらとパピヨンが飛んでましてね。あまりにもきれいだったので捕まえようと手を出したんですが、すり抜けて消えたんですよ。それから勉強机の前で毎日のように見るようになってね。でも家族にも友達にも見えないんです。そういう不思議な現象の経験はありませんか? まあたいていはないでしょうね。わたしもパピヨンを見るまで信じていませんでしたから。それでパピヨンを信じてもらうために観察したんです。よくよく見ると、パピヨンは二つの丸い膜がくっついて蝶のように見えていることがわかりました。それぞれの膜がタイミングを合わせて脈動していたので蝶に見えたというわけですね。結局のところ蝶ではなかったのですが、それを言い表すいい言葉がなかったのでパピヨンと名付けたのですよ。その膜は脈動するたびに色を変えてキラキラと光ってましてね、そう、水の上に浮いた油のように連続的に色が変わるんです。例えるなら、国宝の曜変天目茶碗の模様をもっと細かく複雑にしたようなイメージでしょうか。わかります? ええ、そのくらいキレイなんですよ。でね、中学生にもなると、現実と空想の区別もつくようになるじゃないですか。わたしもそうで、パピヨンは相変わらず見えていましたけど、これはきっと空想の産物じゃないかと思うようになってきたんです。そうしたらそのパピヨンのこともだんだんと気にならなくなってきて、大学に入学して実家を出ると、ぱたりとパピヨンを見ることがなくなったんです。大学では理論物理学を専攻しまして、素粒子の振る舞いを研究しました。チェレンコフ放射について――これは荷電粒子が光よりも速く動くときに出る光のことです。そうそう、よくご存じで。確かに光より速く動く粒子はないと言われていますね。ですが水なんかの媒質中では光の速度が遅くなりますので、媒質中で荷電粒子を加速させると光速を超えることができるんです。チェレンコフ光とはこのときに出る光のことです。物体が音速を超えると衝撃波が出ますよね、それの光速版ですよ。さて難しい話は置いておいて、そんな研究をしていたんです。あなたがたが聞きたいのはここからですよね。まあそう先を急がずに聞いてください。わたしは当時研究に行き詰まっていたので気分転換にと実家に戻ったんです。そうしたらそこでまたパピヨンが現れたんです。久しぶりだったのもあって、パピヨンをじっくりと観察しました。その最中になんとタキオンを発見したんです。タキオン、ご存知ですよね。先ほど光よりも速く動く粒子はないと言いましたけど、実際はあったんですよ。それがタキオンです。光より速い粒子です。信じられませんか? でも本当にあったら、と思っているでしょう? 本当に見つけたんですよ。ええ論文に書いた通りです。結局タキオンが時空を通過するときに出るのはチェレンコフ光ではなかったんですがね。タキオン送信装置も作りましたよ。少し待ってくださいね。――これがその装置です。意外にコンパクトでしょう。拡声器を改造したんです。この発明がすごいのは、タキオンで過去に情報を送ることができるということなんですよ。過去の人にとってみれば未来の出来事を知ることができるというわけです。このスピーカのところにタキオン放射機を組み込んであるので、こうやって情報の送り先の年代を入力して拡声器に話すと――聞、こ、え、ま、す、か――それがモールス信号に変換されてそれに合わせてタキオンが放射されるんです。タキオンがターゲットの年代まで飛んでいくんですよ。飛んでいく場所はこのスピーカの向いている方向ですから、過去にここにいた人にタキオンが届きます。驚いた顔をしていますね。びっくりしました? でもね、残念ながらタキオン受信機はまだないんです。タキオンの情報は一方通行、受信機がないと伝わりません。ハハハ、がっかりですよねエ。ええ、ええ。受信機は作るつもりありません。危険ですからね。だってそうでしょう。未来のことがわかればやりたい放題できるじゃないですか。金儲けは簡単にできるし、やりかた次第で権力も握れますよね。これまでに論文を読んだ欲深い人たちが随分とわたしの元にやってきましたよ。大金を積んでみたり、脅迫してきたり、色仕掛けで来た女もいたなア、一緒に天下をとらないかって。ハハハ、お断りです。わたしは世界の秩序を壊すつもりはありません。反対に科学者連中はわたしのことを嘘つきだとか詐欺師だとか、クレイジーだとか言っているみたいですね。自分たちがタキオンを検出できないから、発見者のわたしに嫉妬しているに違いありません。自分で言うのもなんですが、タウ理論の確立とタキオンの発見は歴史に残る偉業だと思うんですよね。他の科学者がそれを認めたがらないのも無理はありません。何か疑問があるようですね。どうやってタキオンの実在を証明するか、ですか? 確かに理論的には存在しますが、受信機がない現状では実在を証明することはできませんね。それは認めます。ですがわたしは実在を確信しています。いや、信じているといったほうがいいかもしれません。それで十分じゃないですか。わたしはパピヨンのおかげで人生をそれなりに楽しんでいますし、ささやかですがお金も稼ぐことができました。貪欲になればもっと成功することもできたと思いますが、わたしはこれで満足なんです。パピヨン? 言い間違えましたかね。パピヨンではなくタキオンです、タキオンのおかげと言ったつもりですが。食いついてきますねエ。パピヨンがそんなに気になりますか? あれは空想の産物と言ったでしょう。わかりました、いいでしょう。ここから話すことはこの世ではわたししか知らないんですが、お話しましょう。先ほどパピヨンのことを調べてタキオンを発見したと言いましたよね。わたしは最初、パピヨンをただの空想だと思っていましたが、それにしてははっきり見えるので何か目に異常があるんじゃないかと考え直して病院で調べてもらったんです。そうしたらわたしには色覚異常があることがわかったんです。病院の先生からは、遺伝子異常で色を感じる錐体細胞の一部が機能していないと言われました。でもわたしは、もしかしたら機能していないという錐体細胞の一部がなんらかの光を受容しているのではないだろうか、ってそう逆に考えたのです。それからです、わたしが憑りつかれたようにその光を調べたのは。そして長い年月ののちに、ついに突き止めました。ずっと空想と思っていたパピヨンの正体は、タキオンが時空を通過したときに発する光だったのです。パピヨンの禍々しいまでの色模様は、まさに未来を現す色彩だった。目の色が変わりましたね。そうです。タキオンの受信機は、実はわたしの目の中にあったというわけです。思い込みじゃないかって、疑り深いことですねエ。わたしはさらに調べましたよ。そうすると、パピヨンの羽ばたきのように見えた変化は、実はタキオンのオンオフによるものだとわかりました。ここまでわかればあとは簡単です。現在のわたしが過去のわたしに向かってタキオンでモールス信号を送れば、過去のわたしは未来のことを知ることができる。子どものころに見たパピヨンも、未来のわたしが子どものわたしに送信していたタキオンだったのです。そう考えたわたしは子どものころのわたしに向かってタキオンを放射しました。そうしないと子どものわたしがパピヨンを見れないじゃないですか。因果関係は守らなければいけません。フフフ、もちろん悪用はしていませんよ。このことはまだ誰も知りませんがね。むしろ、わたしはこのことを他人に知られるわけにはいかないのです。もし知られたら、悪い人間たちがわたしを拉致して目玉をくりぬき、パピヨンを受容する細胞を採取して受信機を作るでしょう。そして悪行の限りを尽くすはずです。最終的には宇宙の因果律を破壊してしまうところまで行くのではないかと思うのです。結局わたしの使命はタキオンを発見することではなく、パピヨンを守ることだったと思います。必死にメモを取っていますね。でももう無駄なことです。なぜあなたにこんな秘密の話をしたのか? わたしも不思議だったんですが、未来のわたしが言っていた意味がわかりましたよ。インタビューの最初にパピヨンを見た、とお話しましたよね。先ほども言ったようにパピヨンは未来のわたしからの福音です。それに沿って行動すれば間違えることはない。パピヨンの福音は、あなたをコォロォセェ――コロセと告げていました。殺せ。狂ってるって? そうかもしれませんが、未来は絶対です。因果律を崩すわけにはいきません。パピヨンの話をしたのも必然です。この世でパピヨンのことを知っている人は存在してはいけないのですから。そう騒がないでください。この話はこれでお終いです。あなたにとってはパピヨンの凶報になってしまいましたねエ。さあ終わりにしましょう。

――ドン

エンタングルメント・マインド(Entanglement Mind)

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